現在でも年間14万人が発症するハンセン病。そのうち約半分を占めるのがインドだ。いまだ社会的な差別や偏見にさらされる患者や元患者たちの暮らしを、朝日新聞大阪映像報道部の田辺記者が現地取材した。

世界最多、年間7万人が発症するインド

訪れた4月下旬、気温は40度近くまで上がっていた。

インドの首都ニューデリーから約600㌔ほど南東にある小都市プラヤーグラージ。ガンジス川など大河が合流するヒンドゥー教の聖地「サンガム」近くにある、ハンセン病の元患者たちが暮らす集落を訪れた。集落は、この土地に移り住んだ人々によって形成され、「コロニー」と呼ばれている。

かつて、「不治の病」と言われたハンセン病。日本では、誤った政策と認識により患者が強制隔離された感染症だった。特効薬が確認されて80年ほどが経った今、日本で発症するのは年間数人とわずかだ。一方、世界保健機関(WHO)によると、世界では今でも約14万人(2021年)が発症している。

その中でも、年間7.5万人と最も発症者が多かった国がインドだ。彼らはどんな生活をしているのか。なぜ今も多くの人が発症するのか。そんな疑問を抱き、インドのコロニーを訪ねた。

プラヤーグラージのコロニー=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

コロニーのリーダーに案内され、集落を歩き進んだ。そこにはシートやトタン板をいくつも重ねて屋根にした家々が、見渡す限り密集していた。公道から引っ張ってきた電線がいくつも株分けされ、無規則にその低い屋根の上をはっていた。

子どもたちが走り回る大木の木陰にさしかかると、私たちを待つ男性の姿があった。ここで暮らす、元患者のラジュ・ダスさん(46)だ。「遠いところから、よく来てくれました」。彼は笑顔で手を合わせ、自宅に案内してくれた。

家の前に立つ、ハンセン病元患者のラジュ・ダスさん=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

ダスさんが住む平屋の家屋は曲がった木で組まれ、その上を何枚かのシートで覆った造りだった。砂ぼこりが積もった床にはフライパンやボウル、皿などが置かれていた。電球が一つだけぶら下がった天井は、腰を曲げないと移動できないほど低かった。彼はここで妻と息子2人、娘1人の計5人で暮らしている。

「家に水道はありません。近くの水場を利用して生活しています」。ダスさんはそう話し、共用の水場まで案内してくれた。

水場は、ブロック塀一枚で男性用と女性用に分けられていた。この場所で水をくんだり野菜を洗ったりするほか、シャワーにも使うという。元々、女性用の水場は四方を壁で囲まれ、中が見えないようになっていたが、数年前に壁が崩れた。「壁を修理するお金がないので、女性たちは服を着たまま体を洗っています」と、ダスさんは話した。

また、このコロニーにトイレはない。住民たちは近くの空き地で用を足すという。

プラヤーグラージのコロニーにある女性用の水場=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

インドでハンセン病回復者を支援する団体「インド・ハンセン病回復者協会(APAL)」の調査によると、ハンセン病元患者のコロニーはインド国内で少なくとも782カ所ある。全土を網羅して把握できていないため、実際の数はそれ以上あると考えられるという。

「これは神様の罰なのか」 両親にさえ会わずに生きる

プラヤーグラージのコロニーで、大木の木陰に集う住民たち=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

そんなコロニーで暮らす人々は、どんな背景を持ちここにいるのか。ダスさんに聞いた。

100㌔以上離れた隣の州で生まれたダスさんは、両親、きょうだいの計9人で暮らしていた。11歳でハンセン病を発症し、生活が一変した。隣人に病気が知られるやいなや、「生まれる前の行いが悪かったから病気になったんだ」「お前の家族はだめになる」と、罵声を浴びせられた。

「毒のような声に聞こえた」と、振り返るダスさん。当時は、体が病気で弱っていたため、言い返すことも出来なかった。心ない言葉が心身をむしばんだ。近所の人たちは、病気を理由にダスさんを避けるようになった。

「なんでみんな、僕を見て離れていくんだろう」。幼心に「死んだ方がましだ」と、思った。12歳になる頃、たまらず1人で家を出た。現在のコロニーに移り住んで35年ほどが経った。故郷を離れて以来、両親には一度も会っていない。

聖地「サンガム」を流れるガンジス川=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

インドにはかつて、身分を分けるカースト制度が存在した。カースト制度はヒンドゥー教の輪廻(りんね)、業などの考え方と結びついている。

それはハンセン病患者にも当てはめて考えられ、病気による体の変形は「前世の報い」として捉える人もいた。当時、ハンセン病患者はカーストにすら属さない「不可触民」とみなされ、差別の対象となっていた。

ラジュ・ダスさんの足の指先は、後遺症で変形していた=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

現在、カースト制度による差別は憲法で禁止されている。しかし、地域によっては「ハンセン病患者の大学入学を認めない」など、患者差別が残っている。依然として患者や元患者は社会的に弱い立場に置かれている。

ダスさんは、「神様の罰でハンセン病を発症したかもしれない。でも今は家族のために一生懸命仕事をしている。生まれ変わったら、来世ではきっと幸せになれると信じている」と、話した。

小学生で家出、「物乞い」をするしかない

ダスさんに別れを告げ、プラヤーグラージを後にした。東におよそ100㌔ほど車を走らせ、インド最大の聖地の一つ、宗教都市バラナシにあるハンセン病コロニーを訪ねた。

バラナシのコロニーは、バイクや車がひっきりなしに行き交う街中にあった。線路脇に建てられた家々は青や黄緑など鮮やかに塗られ、小道はれんがを敷き詰めて舗装されていた。最初に訪れたプラヤーグラージのコロニーと比べて規模は小さく、整備されている印象だった。コロニーのリーダーによると、65人、30家族が暮らしているという。

バラナシのコロニー=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

コロニーで、元患者の女性、ジュナ・デビさん(45)に出会った。

隣の州で生まれたジュナさんは、小学生の頃ハンセン病を発症した。病気を知った家族や隣人はジュナさんを追い出すことはしなかった。それでも、家族に影響が及ぶことを恐れて、自ら家を出る決断をしたという。わずか10歳のときだった。

「家族と一緒に暮らしたかったし、離れるのは悲しかった。20年後に姉と再会するまで、毎日家族のことを思い出していた」

バラナシのコロニーに住むジュナ・デビさん=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

バラナシのコロニーに移り住んでからは、学校へ通うのをやめた。結婚した夫は早世し、現在は息子と2人で暮らしている。

ジュナさんは毎朝7時から昼12時まで、コロニーの近くで物乞いをして暮らしている。1日に約20~50ルピー(約30~80円)の稼ぎだ。それに加え、州からハンセン病の後遺症を持つ人に対して給付される月3千ルピー(約5千円)が収入だ。

18歳の息子は、コロナ禍で学校をやめた。現在は政府関係の建物を清掃する仕事に就いているという。

ジュナさんは「私が学校に行って教育を受けていれば、物乞い以外に他の仕事が出来たかもしれない、と思うことはある。でもやめたのは、自分で決めたことだから仕方が無い」と、話した。

バラナシのコロニーでは、住民が家の前で野菜を切っていた=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

APALのマヤ・ラナベラ会長(43)は、「30年ほど前まで、ハンセン病患者や元患者は、物乞いになるしか選択肢はありませんでした」と話す。

ラナベラ会長によると、これまで「ハンセン病は貧しい人が発症する病気」という誤った認識が国内で広まっていた。しかし、1990年代にハンセン病の治療薬が無償で配布され始めてからは、「貧富にかかわらず誰もがかかる可能性のある病気だが、完治する」という正しい認識が広まり、状況が変わってきた。現在は、病気を理解する雇い主が患者や元患者を雇用するようになってきたという。

一方、コロニーには、ジュナさんのように物乞いをしたり、仕事をできずに暮らしたりする人たちが今でも数多くいるのが現実だ。

都市部では教育や啓発によりハンセン病に関する正しい知識が広まっている一方、「農村部ではハンセン病患者・元患者に対するスティグマ(偏見による差別や恥辱)が依然として残っている」と、ラナベラ会長は話した。

バラナシの街=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

子や孫の世代でも貧困から抜け出せない

コロニーにはハンセン病元患者とその子ども、孫の三世代が居住する。第1世代はハンセン病を患い、コロニーに移住してきた世代だ。第2世代は元患者の子どもたちで、第3世代は元患者の孫だ。

バラナシのコロニーにある自宅前に立つ、サマール・デュッタさん(右)と、妻のグリータさん=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

バラナシのコロニーに住むサマール・デュッタさん(52)は自ら移住してきた第1世代だ。

7歳でハンセン病を発症し、15歳で学校をやめた。その後は、工場で木製椅子をつくる仕事をしていたという。30代後半で後遺症が悪化し、右足を切断した。そして仕事も出来なくなった。今は州政府からの給付金と、富裕層からもらう野菜や果物の寄付を頼って生活している。

食べるものには困らないが、「家のトタン屋根がサルに壊されて、雨期になると家中が水浸しになる」のが悩みだという。そのため雨が降る年間30日間ほどは家を離れ、雨をしのぐことができる高架下で寝起きしている。

「コロニーを出て家を建てたいが、お金がない。建てるには150万ルピー(約250万円)くらい必要だ」と、デュッタさんは話した。

第2世代、第3世代でハンセン病を発症する人はまれだ。しかし、コロニーの貧しい暮らしから抜け出すこ���ができる人は多くない。

家の中を松葉杖をつきながら歩くサマール・デュッタさん=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

第2世代にあたる女性、カイアル・デビさん(21)。両親はともにハンセン病の元患者で、コロニー出身だ。カイアルさん自身はハンセン病患者ではない。

16歳まで学校へ通っていた。特に数学とヒンディー語の成績が良かったという。5年前に結婚し、生まれ育ったコロニーから、夫が住むバラナシのコロニーに引っ越した。日本でいえば6畳一間ほどの家で、夫と暮らしている。

現在は美容学校に通い、メイクの勉強をしている。「将来の夢は自分の化粧品店を持つこと。オーナーになりたい」とカイアルさんは語った。

バラナシのコロニーにある自室で、ベッドに腰掛けるカイアル・デビさん=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

コロニーの住民たちは貧困を抜け出せずにいる。APALのラナベラ会長は「今のところ、望んだ人の中でコロニーを出て、家を建てられる人は5%にも満たない」と、現状を話す。

カイアルさんのように、コロニー出身者同士での結婚が多く、コロニーの外で家を借りたり建てたりするだけの稼ぎがない。また、差別や偏見にさらされるよりも、生まれ育った場所で暮らし続けたいと望む人も多く、コロニーを出る住民が少ないのも事実だ。世代が変わっても、貧困から抜け出せない理由がそこにあるという。

バラナシのコロニーにある家で、洗い物をする女性=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

インドの発症者、なぜ多い?

WHOの2021年の報告によると、国別新規発症者数はインドが7万5394人で最も多い。2番目に多いブラジルの1万8318人に大きく差がついた。人口の多さも一因となっているが、インドだけで世界の新規発症者数の5割以上を占めた。

プラヤーグラージのコロニーに住む、カピル・デヴ・パンディットさん。簡素な2段ベッドが「自宅」だといい、下段にはヤギが寝るという=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

国によって発症者数が大きく異なる理由について、日本の国立ハンセン病療養所・長島愛生園(岡山県瀬戸内市)の園長で、医師でもある山本典良さん(59)に聞いた。山本園長は理由の一つとして、「免疫が関係する」と、話した。

ハンセン病は、免疫が少ない乳幼児期などに、頻繁に菌にさらされることによって感染する。そして、通常5年から20年の潜伏期間を経て発症するという。ただし、感染しても発症するかしないかは、免疫が一つの要因になる。例えば、日本人が感染したとしても、十分な栄養がとれていて衛生状態が良いためほとんどの人が発症しない。一方で、「住んでいる環境や衛生状態が悪いと、免疫機能は下がり、発症しやすい」と、山本園長は話した。

バラナシのコロニーにある男性用の水場=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

発症しやすい環境にあることに加え、インドでは「『知識の欠如』が発症した患者の状態を深刻にしている」と、APALのラナベラ会長は指摘する。

都市部から離れた土地で暮らす人の中には、学校で十分な教育を受けていない人も少なくない。ハンセン病に対する正しい知識が薄く、自分に症状が出ても病院に行かない人も多い、という。このため病気の発見が遅れ、体の一部が変形するなど症状が悪化する例が後を絶たない。さらに、「ほとんどの人は、無料で薬をもらえることも知りません」と、ラナベラ会長は話した。

ハンセン病の治療薬は現在、世界中で無償で供給されている。

公益財団法人日本財団(東京都港区)が1995年に世界に向けて無償で供給を始め、1999年まで続けた。2000年以降は日本財団の後を継ぎ、スイスの製薬会社が無償で供給している。

日本財団は、1960年代からインドや日本を含めた世界中の国々でハンセン病患者の支援をはじめた。現在、ハンセン病制圧に関する事業は日本財団から派生した笹川保健財団が実務を担っている。

日本財団と笹川保健財団はこれまで、患者への直接的な支援以外にも、治療薬の研究・開発や、政府組織への働きかけ、歴史資料の保存活動などを行ってきた。笹川保健財団によると、両財団は73カ国で総額407億円をハンセン病制圧に向けた活動に費やしてきたという。

自宅の前で話す、サマール・デュッタさん(右)と、妻のグリータさん=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影

日本財団に関係の深い「ササカワ・インド・ハンセン病財団(SILF)」は、コロニーの住民たちが仕事を始める資金援助を行っている。それらの援助を受けた患者や回復者は、ミシンを買って縫製をはじめたり、畜産業や日用品を販売する小売店を始めたりしている。

APALも、日本財団が設立から関わり継続して支援している団体だ。APALは、各州のコロニーのリーダーを統括し、ネットワークを形成し、インド政府やWHO、NGOと協力してハンセン病患者や元患者の生活の向上、地位の確立に努めている。

APALのラナベラ会長は「インドは人口が多く、国土が広いため、まだまだ支援は網羅的にできていない。ハンセン病によるあらゆるスティグマを排除するために、広く支援が必要だ」と、話した。

バラナシのコロニーにある自宅の玄関に立つ、シーマ・デビさん=2023年4月、インド・ウッタルプラデシュ州、筆者撮影