いま子どもたちは 能登で一歩ずつ(1)
「ほらほら、若者がもっと食え」
5月下旬、石川県輪島市門前町のボランティア拠点で、夕食を囲む大人たちの中に、1人の高校生がいた。促され、笑顔で肉をほおばったのは、県立門前高校3年の倉沢笙(しょう)さん(17)。1月の能登半島地震で自宅が壊れ、ともに暮らす母や兄、妹とも離れて、地元で避難生活を続けていた。
東京生まれ。通っていた幼稚園の園長の実家が門前で、何度か家族で遊びに来ていたこともあり、小学生の頃に移り住んだ。豊かな自然や瓦屋根が連なる町並みが気に入っていた。
元日の地震は、そんな町を一変させた。
最初の揺れが襲ったとき、「また珠洲の群発(地震)やろ」。そう思って油断していたところに「やばいのが来た」。棚から漫画がなだれ落ち、低い地鳴りとともに、家がギシギシと音を立てた。「もうダメかも」。最悪の事態も覚悟した。
3度目が来るかも――。家族と裸足のまま、瓦が散乱する外へ飛び出し、車で一夜を明かした。ガソリンがなくならないようこまめに暖房を切り、座ったまま毛布を抱いて寒さをしのいだ。翌日、市内の中学校に避難した。
1月上旬、大学受験を控えた兄と中学生の妹が、埼玉の親戚の家に身を寄せることになり、母と中学校に残った。「2人はいつ戻ってくるのか」。当時、水道もしばらく復旧しない、とうわさされていた。避難所で寝る前の静かな瞬間、先の見えない不安に襲われた。
1月下旬には、母が金沢市の北隣にある津幡町へ避難し、兄や妹もそこへ合流することになった。一緒に行こうと持ちかけられたが、友だちや近所のおっちゃんら知り合いの多い門前に居続けたい、と残ることを決めた。
家族と離れて居続けた中学校の避難所には、当時、数百人が避難していた。そこでは、トイレの水くみや掃除、支援物資を配る仕事に励んだ。「工事の土木の人とか、復興に向けてみんな頑張っていたんで」。考えてばかりで動かないのが「一番ダサイと思うタイプ」なのだという。
大きな被害が出た1月の能登半島地震。被災した石川県立門前高校の生徒たちを訪ねました。4回シリーズです。
それでも、言葉にできない「…