被爆から20年後に授かった娘 思わず重ねたあの子の面影

有料記事核といのちを考える

榎本瑞希
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ナガサキノート 渡辺好彦さん=1939年生まれ 【後編】

朝日新聞長崎版で2008年から始まったナガサキノート。被爆者一人ひとりの人生を、1日に400字ほどの小さな記事で数回から十数回積み重ねて描いています。24年2月28日に通算4千回になりました。このページではシリーズごとにまとめた記事を掲載しています。

 終戦は、新たな闘いの始まりだった。

 渡辺好彦さん(84)と母・モトさんは自宅のあった長崎市本原町に戻って義父と合流した。1946年に山里小学校に入学したが、「修学旅行や遠足には一回も行けなかった」。

 義父は終戦時60歳を過ぎ、仕事がなかなか見つからなかった。家には電気も通らず、戦後2年ほどは造船所の施設でろうを拾い、芯をつけて明かりをとった。

 母は建設現場で働いて家計を支え、戦後に生まれた4人の妹弟を育てた。おむつ替えや洗濯、炊事は渡辺さんの仕事だった。

 小学3年か4年のころ、自宅の近くの川に兵器工場で使っていたらしい機械のモーターが捨てられているのを見つけた。拾って帰ると、両親が銅線と真鍮(しんちゅう)、鉄に仕分けた。

 「学校を休んで、売りに行ってこい」

 両親の言葉に従った。道すがら同級生に見つかって告げ口され、先生にたたかれた。

 「当時は他の家のようすも分からず、逃げたいという考えすらなかった。家を支える責任を果たさなければ、という一心でした」

 幼い体に重圧がのしかかっていた。

予科練出身の殴る教師

 山里中学校に入学した年の秋、義父が病気で亡くなった。いよいよ生活が困窮し、渡辺さんは学校をやめて働きに出ることにした。

 状況を気にかけてくれる大人は周りにいなかったのか。渡辺さんはある体験を語る。

 渡辺さんは小学生のころから、保護者向けの書類を自分で記入していた。母は漢字やひらがなの読み書きが不自由だったからだ。

 ところが中学に上がったころ…

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