水俣病と水俣に生きる人々を撮り、世界に伝えた米国の写真家ユージン・スミス。彼の写真とまなざしは、現代もなお終わらない受難を照らしている。

MINAMATA ユージン・スミスの伝言

W. Eugene Smith

1918-1978

ユージン・スミス。1918年、米国カンザス州ウィチタ生まれ。大学を中退しニューヨークに出て「ライフ」誌などで活躍。第2次世界大戦の太平洋戦線で従軍し、沖縄で日本軍の砲弾を受け重傷を負った。

戦後は「楽園への歩み」「スペインの村」などを発表。59年に「世界の十大写真家」に選ばれる。

71年9月に熊本県水俣市に移り住み、水俣病患者の取材を開始。74年帰国。75年に写真集「MINAMATA」をアイリーン・美緒子・スミスさんと出版した。78年10月15日、脳出血のため59歳で死去。

Aileen M. Smith

1950-

アイリーン・美緒子・スミス。1950年、米国人の父と日本人の母の間に生まれ東京で育つ。11歳の時に米国へ移り住み、68年にスタンフォード大に入学。70年にユージン・スミスと知り合い、71年8月に結婚。その直後、2人で水俣に向かい、水俣病患者が多くいた地域に家を借りて撮影を開始した。

不知火海に面した熊本県最南端の水俣は、農漁村だった。1889(明治22)年の市町村制施行で水俣村が誕生。1908(明治41)年、水力発電の電気を使って生産する日本窒素肥料(現・チッソ)が発足。水俣工場を中心に工業都市として発展を始めた。

チッソが工場廃水を流していた「八幡プール」。1971年の9月の撮影で…

アイリーンさんが振り返る

チッソ(東京)の水俣工場は1932年から、化学製品アセトアルデヒドをつくる過程で生じた猛毒のメチル水銀を含む廃水を水俣湾に流し始めた。56年に水俣病が公式確認された後も止めなかった。

"Photography is a small voice, at best, but sometimes—just sometimes—one photograph or a group of them can lure our senses into awareness."

「写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま―ほんのときたま―1枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことができる」

彼は見た。人々に恵みをもたらした海は、汚染されていた。

ボラを捕る漁。患者さん家族に仕事をしているところを撮らせてほ…

アイリーンさんが振り返る

「魚わく海」。水俣の海はかつて豊かな漁場だった。イワシ、タチウオ、ボラ、タコ……。作家の故・石牟礼道子さんが水俣病を描いた「苦海浄土」で、漁民は語る。「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす」。その海に異変が起きた。

チッソ工場の正面。トラックとかが出入りするとき以外は閉まって…

アイリーンさんが振り返る

1956年、水俣市内の病院から水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患の多発」が届けられ、水俣病が公式確認される。58年、チッソが排水口を水俣湾から水俣川河口に変えた結果、汚染は不知火海全域に広がった。水俣工場の正門付近は、患者家族らが座り込みを繰り返す闘いの場となった。

"To cause awareness is our only strength."

「気づかせることが、わ��われの唯一の力である」

奪われた人生や命を代弁するように、彼は撮り続けた。

船場岩蔵さんの手。亡くなる直前、危篤だとの知らせを受けて…

アイリーンさんが振り返る

水俣病には頭痛や手足のしびれ、味や熱さがわかりにくい、見える範囲が狭くなるなどの症状がある。重症者は手足を自由に動かすことが難しくなる。人にうつると誤解され、患者とその家族は差別を受けた。

寝たきりの林田文蔵さんと、奥さん。10年くらい同じ状態で、ずっと…

アイリーンさんが振り返る

「俺の病気は何だ」。原因がわからぬまま手足のしびれがひどくなって変形し、仕事もできず寝たきりになると、家族が雨戸を閉めた部屋でつきっきりで看病した。自分の病気が水俣病と確認されるのは死後、解剖を受けてからという人も少なくなかった。

諫山孝子ちゃんは水俣市の隣、津奈木町で1961年に生まれた…

アイリーンさんが振り返る

母親のおなかの中でメチル水銀の被害を受けた胎児性患者は、生まれた時から公害を背負う。「健康な自分を知りません」。生後、月日がたっても首がすわらず、けいれんを繰り返した。多くは当初、脳性小児まひと誤診された。母親は自分が魚を食べなければ、と自責した。

お風呂からあがった上村智子ちゃんの手。このままで固まっているが…

アイリーンさんが振り返る

母親は、歩くことも話すことも不自由な我が子の曲がった手を握ってひざの上に抱き、1時間以上かけて食べ物を口に運んだ。妹や弟の分の「毒ば吸い取ってくれた」から、「宝子」と呼んだ。

上から7歳男児の脳の断面。4年にわたって水銀が脳細胞を侵して…

アイリーンさんが振り返る

水俣病は脳の神経が壊される公害病だ。チッソ水俣工場が海に流したメチル水銀が食物連鎖で魚や貝にたまり、それを食べることで発症する。一度被害を受けると完全に治す方法はない。

環境庁ができたのが50年前の1971年7月。その2カ月後、私…

アイリーンさんが振り返る

水俣を訪れた三木武夫・環境庁長官(当時)は、患者宅を次々と回った。寝たきりの重症患者は両目を見開き、何かを訴えようとした。胎児性患者の父親から頼まれ、わずか体重15キロの娘を抱きかかえた。そして約束した。「みなさんの苦しみはわかりました。できるだけのことをします」

"But what we also found in Minamata was the kind of courage and stubbornness…"

「しかし、私たちが水俣で発見したのは勇気と不屈であった」

患者家族とチッソとの闘いでは、時に彼も暴力に巻き込まれた。

熊本地裁で第1次訴訟が結審した日。みんなでやれるとこまで…

アイリーンさんが振り返る

チッソの「企業城下町」にあって、患者家族は孤立した。水俣病の公式確認後もチッソは患者に補償せず、1968年までメチル水銀を流した。翌69年、チッソを相手に損害賠償請求訴訟が初めて起こされた。

がむしゃらで、絶対にあきらめない、信念の人。それが川本輝夫…

アイリーンさんが振り返る

差別を恐れる身内に隠され、あるいは水俣病と認識されないまま、ひっそり暮らす患者は少なくなかった。川本輝夫氏はそんな潜在患者の存在に気づき、「掘り起こし」にいち早く着手した。自らも患者だった。

ハッと根底をつくひと文字として表現されたのが「怨」。作家の石牟…

アイリーンさんが振り返る

黒地に「怨」と白く染め抜いたのぼり旗は、水俣病患者支援の一つのシンボルだった。全国から支援者や学生が集まり、今に至るまで水俣で活動を続ける者もいる。

患者さんたちがチッソの社員から暴行を受けた「五井事件」…

アイリーンさんが振り返る

チッソの工場廃水が原因の公害病だと国が認めたのは1968年。すでに水俣病の公式確認から12年が経っていた。行政への不信から一部の患者家族は訴訟に踏み切った。チッソに直接、話し合いを求めて座り込みを続けた患者もいた。

中央公害審査委員会(1970年設置、のちの公害等調整委員会)に…

アイリーンさんが振り返る

重い障害を負った患者の我が子を抱いて、親たちは法廷へ、国との交渉へ、遠路向かった。失われた命と健康の代償を求める行動もまた、命がけだった。

8歳で亡くなった溝口トヨ子ちゃんの火葬。裁判に勝った後、土葬…

アイリーンさんが振り返る

水俣病の認定患者は2021年9月現在、熊本、鹿児島両県で2283人。亡くなったのは1997人。患者認定はされていないが症状が確認された「被害者」は約7万人いる。被害の全体像はいまだ分かっていない。

勝つかどうかも分からなかったが、事前にあがれるビルを探した…

アイリーンさんが振り返る

熊本地裁がチッソの責任を認める判決を出した1973年3月、地裁前は患者家族や全国からの支援者、報道機関でごった返した。水俣病の歴史のなかで、司法判断は被害者の救済にたびたび道を切り開いた。

チッソ本社に布団を持ち込み、経営陣との交渉を続けた。熊本地裁で…

アイリーンさんが振り返る

勝訴判決の補償内容では、重い病を背負わされた我が子の将来は不確かだった。原告の患者家族はチッソ本社で座り込みを続けていた患者グループと合流し、チッソ幹部と相対した。110日間の直接交渉の末、三木・環境庁長官や熊本県知事らを立会人として補償協定が結ばれた。

"Jitsuko-chan: No involvement with a human being reacting to her world ever has disturbed me as do you."

「実子ちゃん:世界に反応するどんな人間とのかかわりもあなたほどには私の心をかき乱さなかった」

生まれながらの被害者たちは、彼の写真を通して世界に訴えた。

1972年6月、ストックホルムの第1回国連人間環境会議に向かう…

アイリーンさんが振り返る

国際会議の場に出向き、被害を訴えた患者らがいた。ユージン・スミスの写真は世界を巡り、日本の地方で起きた公害病は「MINAMATA」の名とともに広く知られるようになった。

このとき長井勇君、半永一光君、鬼塚勇治君の3人を撮った。長井君は…

アイリーンさんが振り返る

胎児性患者たちは、自立を模索して作業所で働いたり、演劇に取り組んだりして、自分らしい生き方を模索してきた。還暦を過ぎ、症状の重くなった人がほとんどだ。そばで支えてきた親は鬼籍に入っていく。苦境は深まっている。

ユージンの大切な実子ちゃん。若い女の子、少女が女性に変わるときに…

アイリーンさんが振り返る

田中実子さん。1956年5月1日、「原因不明の疾患」の一人として水俣保健所に届けられ、水俣病が公式確認された。水俣市内で24時間の介護を受けて暮らす。2歳11カ月で発症して以来65年間、言葉を発したことはない。
撮影:アイリーン M.スミス

"I believe in it. If it is well―conceived,it sometimes works.
That is why I―and also Aileen―photograph in Minamata."

「私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私―そしてアイリーン―が水俣で写真をとる理由である」

ー「写真集MINAMATA」からー

MINAMATAの真実とは

真実は、時に真夏の太陽のようにまぶしく、直視できないのか。熊本県水俣市に暮らし、幾度もつぶやいた。

世界に水俣病の実態を伝えた米国の写真家ユージン・スミス(1918~78)を俳優ジョニー・デップが演じる映画「MINAMATA―ミナマタ―」が2020年2月、ベルリン国際映画祭で初公開された直後。水俣のある店のカウンターで客の一人がつぶやいた。「いまさら当時の水俣を描かれても……蒸し返さんでほしい」

「二度とこの悲劇は繰り返しません」。誓いが刻まれた水俣病慰霊の碑=2021年9月2日、熊本県水俣市
かつてメチル水銀を含む排水が流された百間排水口=2021年9月1日、熊本県水俣市

苦い経験があるからだ。修学旅行へ行った関西の土産物店で、どこから来たのか問われ、勇気を振り絞った。「水俣です」。すると露骨に嫌な顔をされた。外からは「うつる」といった間違った知識や中傷にさらされ、なおさら歴史的受難を直視できなくなった。地元だからこそ、本当に見ようとすれば、苦しいから。

ただその客の話には一度も、患者の無念を思う一言も、同じ地域内で被害者が差別された過去も、出てくることはなかった。

受難の真実とは何か。60年以上前から、歩くことができず極度に移動の自由を奪われ、「将来の夢」を遮られた一人ひとりが、きょう一日を懸命に生きているということだ。重症者の多くは若くして逝った。だから患者の多くはずっと、死と差し向かいに生きてきたというべきか。

アイリーン・美緒子・スミスさん。水俣病患者との親交は今も続く=2021年8月12日、京都市左京区

「企業城下町」でいつも少数派だった患者は、原因企業の責任を問う裁判に立ち上がり、別の患者は直接会社や国と渡り合い、暴行も中傷も受けて深く傷ついた。その「勇気と不屈」を、ユージンとアイリーンさんは世界にすべて伝えようとした。

「恋」も奪われた少女の手を握ったままシャッターを切り、瞳の奥に揺れ動く心に迫った。住民の多くが病苦をえた地域に家を借り、患者家族と肩を組んで歌い、ウイスキーをあおった。そしていくら撮っても撮れない、と泣いた。

坂本しのぶさん 撮影:アイリーン M.スミス
現在65歳になった坂本さん。「水銀に関する水俣条約」の締約国会議などで、被害根絶を訴えてきた=2017年9月、スイス・ジュネーブ
長井勇さん 撮影:W.ユージン・スミス
64歳になった長井さん。オンラインで子供たちと交流し、水俣病の教訓を伝えている=2021年8月31日、熊本県水俣市
田中実子さん 撮影:アイリーン M.スミス
68歳になった田中さん。水俣病公式確認のきっかけとなった患者の一人だ。自宅の公営住宅の居間で丸一日を過ごす=2021年9月11日、熊本県水俣市

半世紀前、母に抱かれて海辺を散歩するのが何よりの楽しみで、大きな注射を打つたびに泣き叫んだ幼い患者は今年、還暦を迎え、同じ海辺で24時間介護を受けて暮らし、入院を繰り返している。患者とすら認められない一人ひとりは手足がしびれるたび、頭痛やこむら返りに目を覚ます夜のたび、世の「放置」に唇をかんでいる。

水俣では9月18日、映画「MINAMATA―ミナマタ―」の先行上映会に約1千人が集まった。隣町のつなぎ美術館では、ユージンらの作品展も開かれている。

真実を直視した「勇気と不屈」を見て、耳を傾けて、そして考えて。ユージンの「小さな声」が、聞こえてこないか。(水俣支局長・奥正光)

水俣病認定申請状況
延べ2万8114
認定
2283
棄却
1万7442
結果待ち
1414
熊本県と鹿児島県による。2021年8月末現在

プレミアムA No.16MINAMATA ユージン・スミスの伝言

公開 2021/10/1

取材
奥正光(水俣支局長)、奥村智司(鹿児島総局)
撮影・動画制作
内田光、長島一浩、佐藤岳史、西田堅一、小林一茂
デザイン・WEB制作
小倉誼之、佐久間盛大(朝日新聞メディアプロダクション)
監修
石松恒、木村円、小西宏幸、田中久稔、寺島隆介、並木昌廣、原有希(朝日新聞メディアプロダクション)
取材協力(敬称略)
アイリーン・美緒子・スミス、西山陽一(アイリーン・アーカイブ)、下田良雄 ※田中実子さんの義兄
写真提供
アイリーン・アーカイブ©アイリーン・美緒子・スミス、石川武志