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フロム イチロー|from ICHIRO

午後11時56分に始まった引退会見は、84分間続いた。

あのとき、イチローが私たちに伝えたかったことは。

午後11時56分に始まった引退会見は、84分間続いた。

あのとき、イチローが私たちに伝えたかったことは。

自分が好きなものを見つけてほしいなあ

子どもたちにメッセージをお願いします。

メッセージかあ。苦手なんだなあ。自分が夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げる。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かうことができると思う。それが見つけられないと、壁が出てくるのを諦めてしまうことがあると思うので。色々なことにトライして、自分に向くか向かないかというよりも、自分が好きなものを見つけてほしいなあ、と思います。

アスレチックスとの開幕戦で、大リーグ初安打を放つ=2001年4月2日
現役最後の試合で打席に立つイチロー=2019年3月21日

大リーグはチームの新陳代謝が激しい。実績があっても不振が続けば外され、生え抜きの主力でさえ、シーズン中に戦力外通告を受ける。活躍し続けるには、強靱(きょうじん)な精神力が必要だ。

イチローは「人より頑張ることはできない」と常々口にする。ただ、自分の限界を少し超えていく作業はできたという。プロの打者として積み上げた安打数は4367本(日本1278本、大リーグ3089本)。大リーグでは10年連続年間200安打を放ち、27歳でデビューしながら米殿堂入りの目安といわれる通算3千安打にも達した。

成功した理由の一つが、感情を制御する能力にある。2016年8月、イチローは、達成感について持論を展開した。「達成感を感じてしまうと前に進めないのでしょうか。そこがそもそも僕には疑問で、味わえば味わうほど前に進めると思う。小さなことでも満足することはすごく大事。次へのやる気、モチベーションが生まれてくる」

自身を甘やかしているわけではない。日々、冷静に自己分析することで、長所や短所が明確になる。イチローのいう「積み重ね」は、我々の一般生活にも当てはまる気がする。

言葉にすることが目標に近づく一つの方法かな

日本でプレーする選択肢はなかったのでしょうか?

なかったですね。最低50歳までと本当に思っていたし、でもそれはかなわず、有言不実行の男になってしまったですけど。その表現をしてこなければ、ここまでできなかっただろうなという思いもあります。言葉にすること、難しいけど言葉にして表現することが目標に近づく一つの方法ではないかなと思っています。

人はいつも、他者から評価される。会社の人事であったり、学校の成績であったり。それが、自分の思い描いた通りの結果であるとは、限らない。厳しい評価を下されたとき、どんな行動をとるか。腐るのか。発奮材料にするか。

2018年、イチローはこれまでとは違うシーズンを過ごした。5月、ベンチ入り25人枠から外された。ついた肩書は「会長付特別補佐」。試合には出ないのにチームには同行する。フラストレーションがたまってもおかしくない立場だ。

しかし、イチローは言った。「僕は野球の研究者でいたい」。当時44歳。プレーはしなくても、鍛錬を続けることで自分がどう変化するか。現状を悲観するのではなく、未来に可能性を見いだそうとしていた。

試合に出ないこと以外、イチローはまったく変わらなかった。試合前は誰よりも早くグラウンドへ出て準備をし、打撃練習ではスタンドに放り込んだ。試合後は、クラブハウスでグラブやスパイクを手入れした。

そして、言い続けた。「最低でも50歳まで現役」と。

3000個、握らせてあげたかったな

弓子夫人のことを聞くのは、ちょっとやぼかなと思いますが。

アメリカで、3089本のヒットを残したんですけど、僕、ゲーム前にホームのときは、妻が握ってくれたおにぎりを球場に持って行って食べるわけですが、その数がですね、2800ぐらいなんですよ。そこは、うーん、3000個、握らせてあげたかったなって。僕はゆっくりする気はないですけど、妻にはゆっくりしてもらいたい、と思っています。

イチローは時計が埋め込まれているようなリズムで日々の準備に努めてきた。45歳まで現役で過ごせたのは徹底した体調管理と、家族のおかげだという。

生活面では、妻の弓子さんに支えられ続けた。単純に「ありがとう」などで片付けなかったのは、イチロー流というべきか。おにぎりのエピソードを交えたのは、照れ隠しにも見える。

2016年8月、大リーグ通算3千安打を達成した翌日にもイチローは報道陣に対して弓子さんへの感謝の気持ちを言葉にした。ただ、この時は「(会見で記録達成を)『誰に最初に伝えたいか』と聞かれたときに(弓子さんが)頭に浮かんだんですよ。でもそこ(会見場)にいたんで、言えなかったし、僕もそういうの苦手ですから」。

対照的に「一弓」の話を耳にしたことがある人は多いのではないか。自身と弓子さんの名前を1文字ずつとってつけた愛犬(シバイヌ)。癒やしだけではなく「懸命に生きる姿」を見て奮い立つこともあったという。「超人」イチローの精神的支柱といえる存在だ。

今までなかった自分が現れたんですよね

孤独をずっと感じながらプレーしていたのでしょうか?

アメリカで僕は外国人ですから、このことで人の心をおもんぱかったり、人の痛みを想像したり、いままでなかった自分が現れたんですよね。孤独を感じて、苦しんだことは多々ありました。ありましたけども、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるだろうと今は思います。だから、つらいことしんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、それに立ち向かっていくことは、すごく人として重要なことではないかなと感じています。

大リーグに移籍した2001年、米国内でイチローの実力を疑う人もいれば、注目度の高さを嫌う人もいた。日本のプロは「大リーグとマイナーリーグの間ぐらいのレベル」。そんな考えは、以前からある。

話題先行型の選手への風当たりは特に厳しい。スタンドから激しいヤジを浴びせられ、氷などを投げつけられることもあった。だからこそ、誰もが認める結果を追求した。1年目からア・リーグMVPや最多安打を獲得するなど、輝かしい数字を残し続けた。

しかし、ストイックな姿は批判も招く。マリナーズはイチローが所属した01~12年、7度も西地区最下位に沈んだ。プレーオフ進出は01年だけだ。

優勝の芽がなくなってもイチローは日々、全力で取り組んだ。嫉妬もあったのだろう。「自分のことばかり」と、距離を置く同僚や、低迷の原因をイチローに向ける人もチーム内外にいた。「孤独に苦しんだ」。栄光の裏には影も存在した。

「外国人」。文化や言語の違いから、自分という人間を周囲に理解してもらうのに時間はかかる。若手の指導役も求められ40代で移籍したマーリンズで、イチローは経験を惜しみなく同僚に伝えた。現マリナーズのゴードンもその1人だ。イチロー引退後、地元紙に「イチローへ感謝」の全面広告を出した行動は、人種の壁を越えた信頼と友情の証しだった。

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死んでもいい気持ちは、こういうことなんだと

きょうは涙がなく、笑顔が多いように見えました。

誰かの思いを背負うということは、それなりに重いものなので、一打席一打席、立つことって簡単ではないんですね。やっぱりヒットを一本打ちたかったし。僕には感情がないと思っている人もいるみたいですけど、意外とあるんですよ。結果を残して、最後を迎えられたらいいなと思っていたが、それはかなわずで。それでもあんなに球場に残ってくれて。ま、そうしないですけど、死んでもいい気持ちは、こういうことなんだと。そういう表現をするのは、こういうときなのかなと思います。

大リーグの力と技を楽しむ。3月21日、東京ドームでのアスレチックスとマリナーズの開幕第2戦は、そんな雰囲気だった。空気が一変したのは、午後7時2分。通信社の速報が流れた。「イチローが第一線を退く意向」

ニュースは、観客の手のひらにあるスマートフォンにも届いた。スタンドにざわめきが、さざ波のように広がっていく。いま、目の前に背番号51がいる。その姿は、永遠ではないのだ。前のめりになる。まばたきすら惜しむ。歓声が大きくなる。だって、打って投げて走るイチローを見られるのは、これが最後かもしれないから。

4時間27分に及ぶ長い試合が終わっても、観客は席を立とうとはしなかった。余韻に浸っていたのではない。渇望していた。イチローを、もう一度だけ見たい。

場内の様子を伝え聞いたイチローは、再びダッグアウトから飛び出した。過ぎてゆく時間を惜しむかのように、軽やかなステップを刻む。降り注ぐ拍手に包まれて、ゆっくりとグラウンドを回った。

じゃあ、そろそろ帰りますか

イチローの主な記録

1992-2000 日本プロ野球 シーズン210安打(1994年、当時プロ野球記録) 7年連続首位打者(1994~2000年、歴代1位) シーズン打率3割8分7厘(2000年、パ・リーグ記録) 216打席連続無三振(1997年、歴代1位)
2001-2019 大リーグ 新人シーズン242安打(2001年、大リーグ記録) シーズン262安打(2004年、大リーグ記録) 10年連続200安打(2001~2010年、歴代1位) ア・リーグ首位打者(2001年、打率3割5分 2004年、打率3割7分2厘)

2019年6月21日 公開

企画:
入尾野篤彦
取材・文:
山下弘展、遠田寛生
写真・動画:
朝日新聞、ロイター、シアトル・タイムズ紙ツイッター
制作:
佐久間盛大(朝日新聞メディアプロダクション)