こどもと被災地 東日本大震災13年

福島 向き合えなかった故郷 時が止まった場所で

東日本大震災が起きてからの13年という月日は、子どもが大人へと成長するほどの長さです。がれきに覆われていた沿岸の被災地も多くが新しくなりました。それぞれの土地で暮らす子どもたちを記者が訪ね、その月日をたどりました。

再訪 たくさんの思い出がそこに

かつて過ごした幼稚園は13年経った今も当時のまま。不安を抱えながら足を踏み入れた大学1年生の新田萌さん(19)=千葉県=は、心の底から楽しそうだった。

本を読むのが好きでいつも絵本室にいたこと、自分の等身大の絵を描いたこと、晴れた日は園庭で弁当を食べたこと――。一つ一つを思い出しては、懐かしむ。

持ってきた当時の制服を私(記者)に見せながら、「これを着て避難したんですよ。名札の裏には両親の連絡先が書かれていました」と笑った。

故郷・福島県大熊町にある町立熊町幼稚園は、2011年の東京電力福島第一原発事故の影響で今も立ち入りが制限される帰還困難区域にある。2月3日、周辺の施設とともに初めて報道陣に公開された。

「一番の思い出の場所は?」との私の問いかけに、迷わず遊戯室をあげた。「歌を歌ったり、友達と走り回ったり。いい思い出ばかりが記憶に残っています」

その4日前の取材では、再訪するのが「怖い」と話していたが、この日は当時の同級生や先生とも再会した。

「当時と変わっているのでは、と思って、来たくない思いもあったけど、楽しかった記憶を次々と思い出すことができた」

原発、調べたって意味ないじゃん

震災当時は、幼稚園の年長だった。曽祖母の通院に付き添って町内の病院にいるときに、大きな揺れに襲われた。診察室前の廊下で同い年のいとこと一緒だったが、地震の怖さから泣き出してしまった。

すると、診察室にいた母・恵さん(48)が廊下に出てきて、叫んだ。

「泣いちゃダメ!」

その勢いに気おされて、騒ぐのをやめた。

母が「大丈夫だから」という思いで放ったその一言に、「泣いちゃダメなんだ」と思い込み、当分の間、涙を流すことができなくなった。

自宅が停電したため、この日は、いとこ家族も一緒に町内の別の親戚宅に身を寄せた。

翌日、町内に避難指示が出て、家族とバスで内陸部にある同県田村市に避難。その後、親戚を頼って秋田県大館市に。勤務先に行っていた母と合流できたのは、震災から10日ほど経ってからだ。

この時はまだ、避難の理由が故郷にある原発の事故だとは分かっていなかった。ただ、「この先どうなるんだろう」という不安が募ったことだけは覚えている。

小学1年生となったその年の4月、地元の学校が福島県会津若松市で再開するのに合わせて、家族で同市内に移った。

同級生は100人近くいて、勉強も始まり、毎日が充実していた。

2年生になると、同級生は親の仕事の都合などで相次いで転校。半分くらいに減った。

授業では原発事故や放射能について調べる機会があった。「放射線はどんな風に体に悪いのか」「大熊の人たちを元気づけよう」といったテーマだ。

ただ、そんな授業に疑問がわいたのだと新田さんは私に打ち明けてくれた。

「授業を受けるたび、『原発事故が起きた事実は変わらないし、調べても意味がないじゃん』とか『発表したところで家に帰れないじゃん』と考え、ストレスを感じて震災に向き合いたくなくなった」

その答えが私には意外だった。原発事故で避難した子どもたちが町の歴史や産業を学ぶのは普通のことだと思い込んでいたからだ。今や大熊町のことを海外に発信している新田さん自身が、かつては震災を避けていたということに驚いた。

母の恵さんは、このころの新田さんが暗い色ばかり使って絵を描いていたことを覚えている。無意識のうちに眉毛を抜くようになり、先生から止められてもやめなかった。感情を表に出すことができなくなっていたようで、ドラマで涙を誘うシーンを見ても、泣くことができず、ひきつった表情で笑っていた、と。

「私があの日、『泣いちゃダメ』と言ったからかも……」。そう思い詰めたときもあった。

自分の故郷、明かせなかった

新田さんが小学6年生になり、家族はそろって同県いわき市に引っ越した。姉が高校に進学するタイミングだった。

転校先の学校では、集団登校や鼓笛演奏など初めて経験することばかり。一方で、震災について調べる機会は減り、大熊町出身だと明かすこともなくなった。「震災の記憶が一番薄れていった時期だった」と新田さんは言う。

進学先の高校を選ぶとき、「英語を使った仕事をしたい」と海外研修がある県立ふたば未来学園(同県広野町)に決めた。

同校では、原発事故からの復興について学ぶ授業がある。そこで新田さんがテーマに選んだのは、自分の故郷・大熊町だった。

いわき市に引っ越してから、大熊町出身だと明かすのを避けていた。「恥ずかしいじゃないけど、地元と口にしたくなかった」。大熊町に接する機会自体もほぼなかった。

一方で「そのままでいいのか」という疑問も湧いた。「このまま逃げていても何も変わらない。もっと地元に誇りを持って、恥じらいなく『大熊出身です』と言いたい」

今でも怖い それでも伝えたい

大熊町での思い出には、楽しかったことより、地震で怖かったことが真っ先に思い浮かぶ。

それでも、祖父に町の歴史を教えてもらったり、会津若松市で再開した大熊町の小、中学校に通う子どもたちに町の印象を聞いたりした。

高校2年生のとき、震災時の自身の経験も加えて町のことをオンラインで海外に報告した。さらに、アジアから来た留学生に地元を案内して回ったこともある。

熊町幼稚園と同様、帰還困難区域にある町立熊町小学校では、ランドセルが残された教室や、草が生い茂る校庭、四つ上の姉の絵や私物が残されているのを見てもらった。何も変わらないまま10年以上が過ぎている姿を見てほしかった。

今でも小さな地震でパニックになり、不安でどうしようもなくなった病院の廊下でのことを思い出すことがある。海や川を見ると、「怖い」。

それでも、震災と向き合う。

3月には町の事業の一環でオーストラリアで現地の人たちに町や震災のことを伝えるつもりだ。

町が復興する姿を見るたびに、「私の知らない大熊町になっている」と感じる。元あるものを壊し、作り替えるのが復興なのかな、と疑問だ。知らない町が広がることが悲しい。せめて幼稚園や小学校だけは残してほしい。

「町がどのように変化していくか見ていきたい。震災前と震災後を知る自分だからこそ、伝えられることがあるはず」との思いを強めている。

取材

滝口信之
1989年に福島県いわき市で生まれ、福島市で育った。震災時は東京都内の大学生。2014年に朝日新聞に入社し、3年前から福島総局員。被災地取材を続ける。

撮影

小玉重隆
1982年生まれ。2019年から22年まで仙台駐在カメラマンとして東北各地を撮影。3年半の走行距離は15万キロを超えました。

写真提供=新田萌さん

連載 被災地で育つということ