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なぜ紀州(和歌山)で隆盛を極めた鰹節は、薩摩(鹿児島)にその本場を移したのか

松浦達也編集者、ライター、フードアクティビスト
(写真:イメージマート)

少し前にこんな記事を投稿しました。

「地図に見る昆布の歴史。産地は北海道、食文化は京都・大阪。沖縄に伝えたのは一人消費量No.1の富山の謎」

昆布が日本の食文化のなかでどう伝播していったか。なぜ北海道で採れる昆布が沖縄まで伝わったのかなどなど、昆布の歴史や各地域に昆布がどのように根ざしているかについて触れた解説記事です。

だしの旨味や風味が前面に出るようになった現代では、「だしと言えば鰹節では?」と思えるほど鰹節の存在は強くなっている印象がありますが、日本における料理の柱は(どれくらい前面に出るかはさておき)、まず昆布が土台にあり、そこに各地域の味わいが重ねられています。

前述した記事にも書いた通り、昆布は8世紀の時点で蝦夷地から大和朝廷に献上されていましたし、以降、折に触れて北海道の昆布が内地で好まれてきた記述が残されています。江戸時代以降は、北前船の寄港地となる日本海・東シナ海側の各港にも食材として定着し、九州・沖縄を経由して中国にも輸出されていました。


黒潮と豊後水道で"堅魚"は発展していった

とはいえ、歴史という観点で言えば、鰹節も引けを取りません。約8000年前の縄文時代の遺跡からは鰹の骨が発見されていますし、701(大宝1)年に制定された大宝律令には賦役令の中に調停への「調」とする物品にも「堅魚」が記されています。この堅魚が現代の「鰹節」へと通じる品だったと言われています。

この頃の記録を見てみると、平城京跡から見つかった、徴税の荷札代わりの木簡にも「伊豆の国久寝郷(くすみ)」という地名が記されていますし、735(天平7)年に伊豆の国久寝郷から荒節堅魚十一斤十両/と七連二節を修めたという記録があります。

757(天平宝字元)年に施工された法令である養老令の注釈書『令集解』にも各地の産物を納めさせる税である「調」として、生の魚を切って干した堅魚(カタウオ)と、煮た鰹を干した煮堅魚(ニカタウオ)、そして煮堅魚の煮出し汁を煮詰めて濃縮した調味料の「堅魚煎汁」が指定されていました。

そしてこの「煮堅魚」こそが、後の鰹節の原型と言われています。例えば平安中期の10世紀に成立した『宇津保物語』に「鰹つきの削り物のやうに」という一説があり、すでに削り節に近い使い方がされていたことがわかります。

保存の効く乾物は重宝されます。朝廷は各地に堅魚の貢納を求めるようになり、伊豆、駿河、志摩、相模、安房、紀伊、阿波、土佐、豊後、日向という黒潮と豊後水道周辺海域の堅魚が中央に集められるようになります。とりわけ加工技術が優れていた駿河には煮堅魚やその煮汁も求められました。この頃からだしの味わいは日本人の生活に根ざすようになっていったのです。

鰹節を確立したのは、紀州印南町の漁師たちだった

江戸時代になると、鰹節はさらに日持ちする乾物へとたどりつきました。それまで「煮た後に乾かす」ことで日持ちを担保していましたが、紀州印南(和歌山県熊野印南浦)の漁師、角屋甚太郎(かどやじんたろう)が九州の日向灘へ出漁した際、土佐清水港に漂着。漁場に近い土佐でも鰹節の生産体制をととのえ、1674(延宝2)年に鰹を広葉樹のクヌギやカシの煙で燻すという「燻乾法」を開発し、保存性を高めることに成功しました(熊野節)。

さらに息子の角屋甚太郎(2代目)が、表面を削って良質なカビをつけた改良土佐節が鰹節を大きく前進させます。この手法は紀州と土佐の秘伝とされ、紀州印南の漁師の手で土佐節はますます品質を向上させていきました。

質の高いものには誰もが手を伸ばします。太平洋岸の黒潮ルート上ならどこの沿岸でも捕れる鰹という資源の保存・加工法の「秘伝」について、他藩が指を加えて見ているわけがありません。

1707年の宝永年間には、紀州印南の漁民の森弥兵衛が枕崎に鰹節製造を伝えます。ここから現代へと続く、鹿児島の「薩摩節」製造の歴史が始まります。ただし"秘伝"を藩外に漏らした森弥兵衛はそのまま薩摩に移住し、現地でその生涯を閉じることになってしまいました。

なぜ漁師・森弥兵衛は薩摩に秘伝を漏らしたのか

しかし、秘伝を漏らせば郷里に帰れなくなることくらい、誰にでもわかりそうなものです。弥兵衛はなぜ薩摩に秘伝を漏らしたのでしょうか。

実は1707年という年は宝永南海地震、いわゆる南海トラフ地震が起きた年でもあります。

この地震では東海道から南海道にかけて、地震や津波などで数万人の命が失われました。当時の人口は現代の4分の1程度です。つまり現代のスケールでは10万人規模の大災害。紀州を含めた太平洋沿岸の漁民の被害は甚大で、実際二代目角屋甚太郎もこの地震・津波で命を落としたとも伝えられています。

被災をし、生業とする漁や水産物の加工もままならない。追い込まれた印南の漁民が、他国に安住の地を求めたとしても誰かの責めを負う道理はないでしょう。こうして高品質の鰹節は薩摩にも伝わり、18世紀には紀州、土佐、薩摩の三国で鰹節が盛んに製造されるようになります。

しかしそれから数十年が経ち、天明年間(1780年代)になるとまたも印南の鰹漁師から、今度は東国に鰹節製造の技術が流出します。土佐での鰹漁の漁師だった与市が安房(千葉県房総半島南部)へと渡り、改良土佐節の製法を伝授したのです。しかも江戸で「土佐の与市」を名乗った男は「日給金1分、酒3升」でヘッドハントされ、伊豆や御前崎にも鰹節の製造法を伝授したと言います。

遠方に鰹節を輸送すると一乾節でもカビがつきます。何度も拭き取ると、そこにはまたカビがつく。つまり脱水が促進されることで保存性が高くなり、脂肪の分解が進むことで旨味と風味が増す。特に伊豆においてはカビづけの回数を増やして、脂肪や水分を節から抜き、より安定した品質の鰹節を作る手法が定着していきました。伊豆で鰹節製造に携わった与市は、たちまち伊豆節の値段を3~4割も釣り上げたとも伝えられています。

東国に秘伝を伝えた与市に何が起きたのか

与市が紀州を離れた理由も森弥兵衛同様、史実には記されていません。しかし天明には江戸最悪の飢饉とも言われる、天明の飢饉が起きています。

とりわけ紀州藩の被害は大きく、人口70万人のうち、約15%にあたる10万人が飢餓や疫病で亡くなったと言われています。紀州から土佐への鰹の通い漁も中止を余儀なくされました。疫病や飢餓で命の危険にさらされ、さらに日々の仕事も失えば、新天地を求めたくもなるでしょう。

与市が伝えた伊豆節の風味は江戸の鰹節問屋に高く評価されました。複数回カビづけした本枯節の人気も定着していきました。

江戸時代には紀州、伊勢・志摩、土佐、薩摩の節が名品として名を馳せ、明治に入ると土佐、薩摩、伊豆が三大鰹節ブランドに。さらに明治30年代には伊豆節をルーツに持ち、徹底した焙乾と3~6回カビ付けをおこなう「焼津節」が台頭しています。

現在では鰹節と言えば、鹿児島県の枕崎と指宿と焼津が主力生産地となっていますが、それは紆余曲折を経てのこと。実は鰹節の"聖地"をひとつ挙げるとするなら、歴史的には和歌山県印南町となるのです。

ちなみに印南町では2015年に「先人の功績を知ってもらおう」と町文化協会などの有志の会が町内の印南浜公園に顕彰碑を設置。以来、角屋甚太郎の命日を「顕彰の日」として、森弥兵衛や与市らをたたえる献花式などが行われています。

郷里を後にして200年以上、森弥兵衛と与市はようやく故郷に錦を飾ることができました。ちなみにもともと名字のなかった与市は、江戸で「土佐の与市」と名乗ったそうですが、上記の顕彰碑では「印南の与市」となっています。与市自身がどちらを望むかは、神のみぞ知る、のかもしれません。

編集者、ライター、フードアクティビスト

東京都武蔵野市生まれ。食専門誌から新聞、雑誌、Webなどで「調理の仕組みと科学」「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども。新刊は『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)。他『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』(マガジンハウス)ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、『マンガ大賞』の選考員もつとめる。経営者や政治家、アーティストなど多様な分野のコンテンツを手がけ、近年は「生産者と消費者の分断」、「高齢者の食事情」などにも関心を向ける。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

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